“道”に気がついてからというもの
感情は複雑に絡み合ったものをほどくきっかけになるということ
それは理解したのですが、なぜ他に方法がないのか?というのが疑問でした
本当に辛いよ、胸が痛むよ、を通らなければ真実に辿り着けないのだろうか?
答えはひょんなことからもたらされます
あるとき、わたしは誰かの心の痛みに気がつきましたそれを友人に共有すると
友人はその方の潜在意識のようなものと話をした、と話してくれました
見えない世界のあれこれにはこの世と同じか、
むしろそれよりも大切にされているルールのようなものがあります
それによると、他者の意識への不正アクセスはタブーというか
渦に正しく入り込めないばかりかこちらもダメージをくらいかねないのですが
痛みを覚えたとき、ひとは無意識にですが
その痛みにチャンネルを合わせられるひとに対してアクセス許可を出しているらしい、と先の友人がいうのです
それがたとえ既知のルールと違っていたとしても
確かにその瞬間わたしの肝にはそれがしっくりはまったし
実際、そのことに意味がありました
ひとは痛みを覚えたとき、それを補うか誤魔化すかするために
感情に促されて他者を求めがちです
それが良くある”傷のなめあい”に陥り易いタイミングなのですが
深い傷を負ったとき、それがなぜ自分の身に起きたのかを追いかけようともがくひとがいます。
そして、決して多くはありませんが
そのうちのひとにぎりのひとは哀しみ、つまり哀から愛を生み出すひととなります
そのようなひと達はヒントを待っています。
慰めではなくて目覚めるためのヒント。
それを手渡せるひとがもしいるならと
鍵をそっと開けてくれるのかもしれませんね