カトリック教会での一番の学びは「死」について、でした。それは
肉体の死を越えた先にある永遠の命についての学びでもあるのですが
カトリック教会には魂がぐるぐる廻るという概念が無いため
永遠の命は”まだ見たことのないもの”であるから
それを信じる、というのは本当にハードルが高いと感じました
というか、輪廻という言葉を使わないだけで
魂が廻るものであるということをはっきりと否定するような記述
実はないんじゃ無いかと感じています(知らんけど)
そして何よりもわたしが教会から離脱した最も大きな理由、それが
教会が根本的な間違いに気づいていないこと。
悪魔がなぜあれほど神様について詳しいのか、について。
悪魔はもともと天使の中でも最高位の天使であり
神さまに最も近いものであったから、とされていますが
神さまを裏切って闇に堕ちた”良くないもの”というのがカトリック教会の悪魔に対する評です
悪魔が唆すからひとは過ちを犯す。
憎むべきは悪魔だ、と繰り返し教えられることによって
残念ながらカトリック教徒は思考停止という重篤な病に侵されています
好ましくないことが起きるとそれを悪魔の働きのせいにする
つまり悪魔を手頃なスケープゴートにして、自分とはなんら縁のないこと、としてしまいます
なぜその好ましくない出来事が起きたのか、を深く味わうことを彼らは放棄します
それこそが愛へ続く最も近い道であるとも知らずに。
現在カトリック教会は聖書としては外伝などはそれと認めず
一般的に「旧約聖書」と「新約聖書」そして「続編」のみを聖書としており
旧約聖書は多くの人がなんとなく知っている「天地創造」から始まりますが
世界の全てが作られた後に最初のひとが作られ、
そこから女が作られるという流れになっています
その女を欺した蛇として悪魔は初めて聖書に登場します
エデンの園にはあらゆるものがありました
ひとはそれを自由に使って良かったのです
ひとは神さまとすっかり一致していました
ところがある日神さまは言います
「園にあるすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」
すべての木から取って食べて良い、などと今さら?
そしてその言葉を手渡した後に女を作られます。
女が作られたので、ひとは男と呼ばれるようになりました
このときひとは初めて”わたし”と”わたし以外”を獲得します
つまりこれは神さまと離れ、肉体を得て自我をも獲得することを示しています
自我を纏うことが「死」へのおそれを抱くために必要であった、ということがここからわかります
もし女が作られなければ、ひとは永遠にその木からは取って食べなかったでしょうし。
ひとが一旦は神さまを忘れた状態になるように仕向けたのは神さま自身であり
食べるために自らの肉体を使い
命を産むために苦しみを味わう
つまり、常に何某かの「死」を身近に置きながら生きることで
ひとの魂に肉体を得た人間らしい躍動を与えました
けれどそれは決して追放などというものではなく
かつてそこにいたことを思い出すことが
漫然とそこに居続けることとは全く違う、大きな喜びを得るものだと知っていたこと
人間として生きる限られた時間=生涯で感じる喜びが
永遠の楽に繋がるのだと”知る”ことに意味があるからそうなるように仕向けたわけです
善悪の知識の木によって「死」がひとに入り
それを越えたとき「死」は永遠の命への扉だと知る
つまり善悪を知る、ということになります
そのときひとはもう善悪という表層のジャッジに翻弄されることが無くなります
これが本当の意味での「完成」なのかもしれませんね。
蛇は野の生き物のうちで最も賢いものであった、と書かれています
蛇は男に直接声をかけませんでした。どうしてでしょうか
それは、女が命を産み出すものだったから、かもしれません
産み出す性を担う女こそ、「死」と常に直面するように招かれています
毎日の糧を得るために働くという男性性と
苦しみを超えて命を産み出す女性性
これらは肉体の性とは少し違う次元にありますが
わかりやすく発露しているのが肉体の性なのでしょう
だから母は強いのです
そもそも、エデンにいたひとは永遠の命を持っていました
死を纏ったからこそそこから追われた、と書いてあるのですから。
けれど見落としてはいけないのは
そもそも「死」という概念を先に提示したのは他ならぬ神さまだった、ということです
園の中央にそれを準備していたわけですし。
そして「死」への恐れはひとの本質にはなく
他者を得る、つまり”わたし”と”わたし以外”を区別するために纏うもの(自我)を得るとき
初めてもたらされる、ということを暗示しています
なぜ、神さまがそれをお作りになったか…
ここでわたし達は天地創造の最後の日に神さまが
おつくりになった全てが極めて良い、とされたことをも思い出すべきです
つまりその善悪の知識の木も、最初から”良いもの”としてそこに作られていたわけです
そしてその木からとって食べると死んじゃうんだよねー、と神さまはわざわざひとに告げます
それも、女がまだ作られる前に。
女は男から聞いたその話を蛇にも伝えます
「それを食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと神さまが言ったから」
(ていうか神さまそうは言ってねーしー、ですね(笑)
それに対して蛇は「決して死ぬことはない」と応えます
見るとその木はいかにも美味しそうで目を引きつけ、賢くなるよう唆していた。
って、唆してんの木じゃん!もはや蛇でもないじゃん!
これがどういう意味なのか、というと
甘い甘い蜜の香りがする出来事…それに唆されると死ぬよってことなんだけど
死ぬのは肉体ではなくて、自我なんです
創世記に描かれているあれこれ、じつはひとが産まれるときの物語なんです
光と共にある魂だけのとき、それはすっかり神さまと共にあります
ところが、他者と”わたし”を別けるために肉体を纏うときにひとは自我をも獲得します
それは、もともとは決して悪いことではないのです
他者がいなければ”わたし”は産まれないのだし。
まあ言うなればあの物語は
自我がいかにひとを自分基準の善悪ジャッジで惑わせるものなのか
そしてそれが、自分だけを守りたいという実にエゴイスティックな行動と結びつくのか
という根本的なケース、というのとなのでしょう
「あなた(神)の与えた女が木から取って与えたので食べました」
ってほら、自分が食べたくせにひとのせいにするでしょう
こうして、愛から離れること。実はそれこそが「死」なのです
もうそこには一致が失われていること、わかりますよね
じゃあどうして「死」と仲良くなろう、って?
それはね、そこを越えないとひとは愛に戻れないからなんです
「死」は愛からひとを一旦離れさせます。なぜでしょう?
それは「死にたくない」からです
死にたくないのはだれ?それは「自我」です
あの女が取ってきたから食べたんだもん、ぼく悪くないもん。
あの蛇が騙したからたべたんだもん、わたし悪くないもん。
どこにも「死」を受け入れる姿勢、無いでしょう(笑)
神さまはバカではありません。
わざわざ「死んでしまう」原因になる木を作ったのも
ひとりでいたひとから女を作ったのも
蛇が女に話しかけることも
全てはわたし達ひとりひとりが
自分の中で起きているこの物語と向き合うためでした
自分は正しい、ほかの人は間違えている
あいつがわたしを騙したから失敗した
そういう思考回路にまんまとハマっていませんか
「死」は実はそれこそが永遠の命への唯一の扉のようなものです
永遠の命へ辿り着くための道はひとの数ほどあるけれど
その先の扉、それは全て同じ扉です
怖いから、生きたいからそこを開くことを躊躇うのは
開いた先に何があるのかを誰も聞いたことが無いから。
悪魔の正体を教会は知りません
教会にいる限りわたし達は愛に出会うことは難しい。
あなたに伝えたいことがあります
扉だらけの毎日を越えて永遠の命、それが何なのか
愛についてもっと、深く知りたい
そう思いませんか
(うむ…程よく怪しい(笑)