子ども達とママだけの生活が始まってから2年くらいになります
ありえないくらいの完璧さで毎日が幸せなのも
パパがここにはいなくても子ども達のために、と
あれやこれや心を砕いてくれているからだなあと感謝しています
綺麗事でもなんでもなく、うちのパパは
「やる」と言ったことはやる性格ですから
子ども達のための養育費もちゃんと毎月振り込んでくれています
(まあ公正証書作成してバチバチに取り決めてはいるけど)
お誕生日ごとにお祝いをくれたり
長期休暇中は遠出をして遊びに連れて行ってくれたりと
「どこにいようが生涯子ども達の父親だ」と鼻息荒く言っていたのは本音だったのですね
わたしはと言えば、パパがいなくなってから
誰にも監視されないこと干渉されないこと
怒鳴り声が聴こえないこと気を遣わなくて良いこと
そんな「当たり前」を満喫しています
やりたいことをやりたいときにやりたいだけやれる
そういう中で今日もお節の支度をしながら
わたしにとって一番わくわくするのは
子ども達が安心していられるために何かを考えることだとしみじみ思いました
とはいえ、子どものために自己犠牲なんてことは毛頭考えておらず(笑)
やれないことはやれない、と言い放てる爽快感。
宿題?はあ?やりたくないならやらなくてよろしい
テレビ?はあ?要らない
夜更かし?はあ?勝手にやりゃ良い
お化粧?おー、テクニックすごー(笑)
唯一の苦手なこと、子ども達と遊ぶ。
それをパパに外注しちゃってのほほんと過ごしています
子ども達は寂しいのかな…うーん、わからないけれど確かに
パパが出て行くのなんのって騒いでいた頃は本当に辛かったと思う
でもそれだって
パパだって自由になれなきゃ苦しかったのだし、いちおう
やっぱり子ども達と共に暮らしたい!となったら
戻ってきても良いよと伝えてあるのが精一杯かなぁ、ごめん。
だけど、よくよく考えたらパパ出て行かないでとは誰も言わなかったなー(棒)
ママが家を追い出されたのがかえって良かったんだと思う
何が吉と出るかわからないものだね
子ども達の寝顔の可愛さを見られないのは気の毒だけど
それが必要なのはわたしの方ってことなんだろうなと今は思います
そういうのが無くてもパパなりの愛情は継続出来るひとだということ。
子ども達をこの世に産み出すということに対して
協力してもらえたことだけで十分だと思います
なかなかいないよね、12人を受け入れられる男のひとって。
この前も会社の偉い方というひとにお目にかかったとき
自分も今となれば子どもは何人いても良かったと思う、としみじみお話されていました
せいぜいそんなもんでしょう、きっと。
12人も産まれて、そしてそれぞれがすくすくと成長して
それぞれらしく巣立って行くのを見送れるのは、なんと羨ましいことかと言われ
こんなふうに思うひとがいても
相手も同じように思ってくれるとは限らないわけで
(特に妊娠出産する体力的な問題もあるしね)
我が家はこういうご縁だったのだなあと改めて感じ入りました
それとは全く逆で
大好きな画家のコオロギさんという方は
ご結婚なさるときに子どもは持たないことを奥様と決めたとお話されていました
画家というのは不安定なものだから、と。
それはきっと金銭的なことだけではなくて
子育てに向けるエネルギーが常にあるかどうか、ということなのかもしれません
それだけ、ご自身の表現に対して真摯であるということ
それを受け入れて寄り添う奥さまという女性の器の大きさ
月並みなのかもしれないけれど
産み出した多くの作品がすべて子ども達、なのかもしれませんね
世の中にはひとの数だけ幸せがあり
夫婦の数だけ幸せがあり
親子の数だけ幸せがあり
それらがいつも一定しているわけでも
手に取れる形であるとも限らず
まるで地球を包む大気圏のように
何かを守ったり、コロコロと状況を変化させたりしているのだから
その時々必要なものを持ち合わせる柔軟さがわたし達には必要です
お天気の日に陽の光を浴びるために外に出かけても
日傘が必要なひとだっているし
雨の音が大好きなひとも、曇天に心安らぐひともいる
暑くなれば風を求め、寒さに震えながら温もりを探し
季節のあるところならそれらに心を預け
雲の動き天体の様子に胸躍らせる
ひとって、豊かですね
生きているって、幸せですね
肉体を脱いだその先はもう揺らがないそうです
天に帰る日まで大いに楽しみたいものです
切なさ、恋しさ、苦しみ、悲しみ、怒り、戸惑い
どれをも感じ切りたい、そんな気持ちの本日大晦日
出会って下さった全てのみなさん
これから出会うひとも、ありがとう