そういう願いを持って生きるのは楽しいけれど
その気持ちを悟られずにいることはもっともっと楽しいものです
何故ならその願いは結局自分を喜ばせるものだから。
大っぴらにするほど崇高なものなんかではなくて
あくまでも自分をご機嫌にするためのものだと自覚すると
敢えてリアクションを外に求めずにいられて、より自由にそれを楽しめます
年末、久しぶりに連絡をくれたひとがいました
喧嘩別れしたわけではないけれど
そのひとの大切にしているものに価値を見出せなくて
それをわざわざ伝える必要もないから、と
きちんとお別れを述べて傍から離れたひとでした
そのひとがわたしを”憐れんで”いることは知っています
闇堕ちしてしまったと考えていることもわかっています
それでもなお”救済”のために声をかけてくれているのです
正直なところ悩みました
メッセージには「久しぶりに会えたら嬉しいです」とあり
いや、あんたを喜ばせるためには動かんしwと反射的に思ってしまったため
そういう意識をわざわざおさえつけてでも何かリアクションするかしないか。
結果としてはスルーしました。
そのことが相手を不快にさせるとは知っていたけれど
不快になるのは相手がわたしにリアクションすることを期待したからであって
それを超えなければ本当の意味でそのひとは誰のことも救えない…というか
ニンゲンなんて互いに救うだのなんの、そんなエラソーなこと出来やしません
ある意味では救われる必要などなくて
自分が何なのかさえ思い出せることが出来れば大丈夫なんだよね。
まあそんなわけで
わたし達は誰かを喜ばせたいと密かに思うことも
誰かを喜ばせるために生きてるわけじゃない、と考えることも
なんら矛盾しない…というかさ
矛盾て。
なんでも突き通す矛とどんな攻撃も防ぐ盾
これら両者がどちらも本物なら両立しないよね、って話が元ネタなんだよね?
これは両者が互いに互いを知らないとすればあーねwで終わるしさ
お互い持っているものを相手に手渡せば良いんじゃないかと思う
なんでも突き通す矛とどんな攻撃も防ぐ盾
それを同時に手に入れた瞬間、どっちもいらねーになるってことで。
両の手に握りしめたそれらを放り出してハグでもしちゃえば良いよね
白なのか黒なのか
上なのか下なのか
右か左か後ろか前か
始まりか終わりか
それらはつまりαであり、Ωである。
ぐるぐるしてるってことだ。
あー聖書にも輪っか、書いてあったんだねww
って、ただの日常の一コマがまたほんのり怪しくて草