夢見ることが出来るなら
夢見ることが出来るなら

夢見ることが出来るなら

それはあなたに結実する、という可能性を示唆している
それがどんなに荒唐無稽に思える願いだったとしても怯むことはない

今から24年前、わたしはある人の家にいて泣いていた
当時わたしには2人の子ども達が既にいたのだけれど
「これ以上は望まない」と旦那さんに宣言されてひどく傷ついていた

子どもを産むための身体があるのに、結婚もしているのに
そのパートナーが可能性を閉じようとしているのが辛かった
しかもその理由がいわゆる娑婆でのジョーシキに根ざしていたから、尚更。

その場にいたのは7人の子どもを産んだお母さんと
養子を含めて6人の子どもを育てているお母さんだった

“子だくさん”になりたいわけではないけれど、そこへの可能性を人的に断ち切られるのはたまらないと話したわたしに
ふたりは当惑顔をするばかりだった。
結婚した相手が目に見えないものを信じていないのだからそれも致し方ないのだ、と諭されたけれど
結果としてわたしは旦那さんに対してひとつの提案をした。

意地でも子どもを産みたいということではない。ただ
生殖のための行為でもあるのにその可能性を断つことには同意出来ない
故にあなたが考えを変えない限りはもう交わらないと決めた、と高らかに(笑)宣言したのであった
これを聞いた先の友人達は眉根を寄せてこう言った。
「その言葉は強すぎる。」

結果は…ね。

出来るわけがない、とした時点でそれは出来なくなる。
けれど、成就しなかったことを考えたとき
それは、そう成るべくして成るのだと受け入れられる力と柔らかさも与えられるのでなければ
その願いに対して真の自由とは言えず、何処かで意図がこんがらがっている可能性もある

願いは叶う。
阻害するものは全力で破壊しても良いしぐるりまわり道をしても良い
どんなものもわたし達それぞれの願いを阻止する力はない
唯一、それが出来るのはわたし達自身の
「そんなことは叶わない」という決定だけである

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