泥の中で咲く
泥の中で咲く

泥の中で咲く

あるものを探してお店に向かい、お目当てのものを探し当てられなかったとき
「この店は品揃えが悪いせいでそれを見つけられない」とする人はいる。
悪かないけどわたしは好きじゃない。
ましてそれを誰かに伝える必要ってあるんだろうか
というか誰かに伝えようとしたときそういう論法になるのかもしれない
いずれにしても嫌い。

この世の中には不快なもの好ましく思えないものが沢山ある
どんなに鈍感なひとでも好き嫌いはあるはずだし、あって良いし無ければたぶん死ぬ。

ひとは傷つき過ぎて壊れかけると自我も消えかける
世界は灰色になり喜びももはや悲しみも消え失せてなんの味もない平面に変わる
壊れてしまいたいなどと思う間も無く静かにひとは壊れる
身体が生き続けようとするなら生きるだろうし
それすら諦めてしまえばこの世から完全に消えることになる

そんなことがあるのはあるとしても
だから自我が消えてしまうことはこの世で生きることから離れてしまうわけで
まだまだこの世で生きるつもりなら自我は共にあるのだから感情はあるし感情はバロメータとして機能している
指標なのだから無ければ困るけれどそれをどう使うかそれとも使わないのかは意識した方が良い

不快なものに出会ったならそれがなぜ不快なのかを深く味わいたい
その結果、だから不快なのだ。となればそれで良いし
そんなに悪くない、となるのもそれで良い

わたしを蓮根、と呼ぶひとがいた。
それで良い、泥の中で生きたい。繋がってくれた蕾がいつか美しい花を咲かせるように
泥の中からたくさんの栄養を得て生きようと思う
別の誰かが、咲いた花の美しさに心和ませるのならそれが良い

蓮根は花じゃないけれど美味しいもの。わたしは好き。

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