なかま
なかま

なかま

次女とのやりとりでどんよりしていたところ
まるでわたしから引き継いだかのように次女の相手wを引き受けてくれた友人からLINEがあった。
小柄ながら超絶パワフルな彼女も確か7人くらい子どもがいたと思う
そのうち長女がわたしと同じ名前で、次女がわたしの祖母と同じ名前。
たまにしか会うことはなかったけれど、次女が東京に暮らすようになってなんとなくLINEも増えていた。

これは天の采配。
わたしは今の気持ちをそのままストレートに伝えた。
今さら普通ってなに?
我が子であれ他者の人生の選択自体には興味がない。
助けが必要ならやれることはしたいけれど、と。

「わたしはそこまで割り切れていない」という彼女は
母親に対してとった自分の態度を今、悔やんでいるという。
わたしの次女もわたしと離れてありがたみを感じたからこそシェアしたんじゃないか?と言うことだった。

それについてはさあ?としか言いようがないけれど
彼女が続けた言葉に違和感を覚えた。
「母親が火葬されるとき、わたしも火で焼かれたいと思った」
それは母親に追い縋る気持ちではなく、自分の中の弱さを焼き尽くして欲しいという思いだ、と言う。
自我が強すぎるからその部分を殺してしまいたい、と。

それは違うんじゃねえか?とわたしは応えた。
まずは自分の弱さを認めて許して受け入れることができなければひとを赦すことなど出来ない。
聖書に書かれているとおり「自分を愛するように」隣人を愛するんでしょう。
自我を悪者にしてしまうから叫ぶんだよ
自分を愛せないのにあんた誰を愛せるのさ。ということを伝えると
「そうかもしれんな」と言う。

こんちくしょうホントに負けず嫌い。
とにかくどんなときも自分の自我、つまり弱さをよしよししなさいよ、淑子だけにwと綴ると「うっせえわ」と返ってくる。
「4月に話さんといけんのはうちらやわな」
ほんとそれな…と返しながら
未だかつて友だちだとか仲間だとか感じたことのない縁てやつが
もしかしたらこうして隠されているのかもしれないと思うと
まだまだ”古からの新しい出会い”なるものがどこかに待っているなんてこともあるかと思い胸が躍る自分がそこにいて
なんとも単純だなぁと少し笑えるのがやけに幸せだったりした。

ほんに、天のすることは摩訶不思議也。ん

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