他人の過去の体験に今、わたしが重なる
他人の過去の体験に今、わたしが重なる

他人の過去の体験に今、わたしが重なる

不思議な体験をしてきました。
それは仲良しみよちゃんのInstagramの投稿が発端。
もともと何となくは存在を知っていた写真家さんがいたのですが
みよちゃんがその方と仲良しだそうで、今回も素晴らしかった!って言うから
お、今日はちょこっと時間があるから出かけてみようかなー。
くらいの気持ちでした

国東市で開催されている、ということだったので今日は海岸線沿いに上って行こうと決めました。
わたしをここまで連れて来てくれた流れが繋ぎ変えてくれた歯車の動きは国東の空港から始まり日出町で育まれたから。
思えばわたしがこの地に初めて降り立ったのもこの空港だったしね。
ただしその時は陸路ではなく海を突っ切って渡ったんだった。
その後廃れたそれもまた復活するのだそうです

さて、目的地はなんとなくはわかるけれどそれはざっくりした方角くらい。
…だと思っていたのにあれ?ん?
結局連れてこられたのはいつもの見慣れた道だぞ…
何故か初めからすいすい辿ったその道を往くときに
いつも何となく気になっていた曲がり角
(ここを曲がったら何処へ行くのだろう)
そう感じていたまさにそこを曲がれ、とナビが言う。
もしそこを曲がらなければ今日こそは立ち寄ろうと思っていた神社は
やっぱりまだご縁ではないみたい。

さあ、到着。

そこは牛小屋馬小屋を母屋の横に持つ
おそらく古くからそこに根付いていると思しき農家。
到着までにチラりとInstagramでこの展示について読んだけれど
こんな場所を選ぶとはすごい勇気だな、と思ってた。

かつてそこに在った命あるものの気配と
それらによって残された”営み”の集積という動かし難い”事実”は
写真の展示という場としてはエネルギーがありすぎるんじゃないかと思っていたから。
軽々しく上塗り出来るような薄っぺらいものではないはずで
何故そこを選んだのかを聞いてみたいと思いつつ
もし受け入れ難い返答があったらどうしよう…とまだ迷っていた。

最初に案内されたのは牛小屋。
農作業に使っていたであろうもの、母屋には置いておきたくなくなったもの
とにかくそこに在ったのはそこにいたであろう動物達の気配ではなくてひとの思いの重なりだった。

誰かがここで何かを考えたり考えなかったりして
或いはもっと重要な何かをしながらだったりだとかそうでなかったりとか
ひとつひとつにも、全体としてのそこにもとてつもない量の物語が溢れていた。
そして思わず声を上げたのは
そういう、嫌というほど人間の気配が鎮む中に
さらりと浮かぶそれに気がついたから。

全くそれは調和していた。
流れる川の底でコロコロと丸みを帯びて行く小石がひとの気配なら
それは悠然とそれを見下ろす岩のように
静かでありながら動かぬものではなく
かと言ってやはりひとが持つ体温のような温かさを感じさせない
何処か荒涼とした雰囲気も抱いていた。
のに、実にあっさりとそこに浮かんでいた。

それが何なのかを説明してくれる写真家さんの言葉を聞くなり
なるほどそれは何某かの規則性(この場は”祈り”であった)を保ちつつ
全体としては今ありのまま、まさしくカオス(混沌)であった。

入り口付近の、高い場所に並んでいる履き物は
いつか誰かがそこに履き物を置くという規則性を持たせたものであったし
壁にかけられた紐のようなものにも
ただ投げ置かれたであろう枝斬り鋏のようなものも鍬でさえ
それはそこに在るべくしてあるのだ、というコスモ。
カオスは無秩序ではない、という証明のような場所であった。

2枚目、3枚目と、わたしの巡礼は続く。

それは、日常という、文明によって整えられた歪な平坦さ平安さから
ほんの少しだけ抜け出して向かう”神聖な何処か”での体験を確かに呼び覚ますのには充分だった。

写真家が切り取った窓のようなその写真を包み込む全て、つまり
傾きかけた土壁、継ぎはぎされた透明の波板の屋根から注ぐ光の具合が
見るものをその日その時その場所まで一瞬にして連れて行く力を纏わせているようだった。
「どこでもドアのようですね」と伝えると
そのひとはそれを嬉しい、と受け取ってくれた。

そして最後に招き入れられたのは
3枚目までの世界観とはガラリと印象の変わる場所。
「ここに写真は無いんですか」と聞き終える前にそれが目の端に留まったわたしは思わず笑顔になった。
なんという日常の風景。
わたしは此処を知っている、と
なんの疑いもなくそれはすんなりと胸に入り込んで来た。

幼い日に過ごした東方の片田舎
建物はあくまで開放的に見えた。
けれど、玄関口に佇むわたしという幼女を立ち竦ませるに充分な威厳めいたものを
長く長く続く、丁寧に手入れされて黒光りする薄暗い廊下の先の奥の間は吐き出していた。

ちょうどその、わたしが立ち止まった場所で写真家は
まるでわたしの過去の体験を見透かしたように
パラレルワールドに往き来するわたしの精神をそのまま写し取ったかのように説明する。

万事そのような不思議な体験だった。
そこは確かに見知らぬ筈の
もう誰からも捨て置かれているかのように見える朽ちかけた民家でありながら
人々が一心に目指し祈りを捧げる場所であり
差し出すことが決まっている命を持つ肉体の事実であり、そして
小さな巡礼を終えて帰宅し安堵するわたしの日常と
わたしのアセンションを感じ取り値踏みするかのような厳しさを織り交ぜた、全く新しいそこ、であった。

このような、場所や時間や体験が立体交差する次元の狭間を創り出すそのひとは
まだ幼さの残る少年のようでありながら
悠久の時を経てまるで陶器のように硬く締まった木のように
瑞々しさと水分の全くない枯れた気配を纏うふしぎなひとだった。
この世に生きていながら、おそらくこの世では生きていけないひとなのかもしれない。

素晴らしい出会いに気圧されて
あなたの中の重い何かかがゴロリと動く、
そんな『写真展』であることは間違いない。

2件のコメント

  1. みよ

    麗子さん、やっぱり凄いや!
    何て素敵に自分の思いを綴れるのか!

    麗子さんの文章読んでて高崎さんって写真撮るのに森にずっといるから森になっちゃったのかもなって思った。

    優しい眼差しで何時間でも同じ場所に佇める人だもんね。

    森に入る時も敬意を持って受け入れてくれるまで待つって。無理な日もあるからまた別の日に行って入れてもらったりとかもあるそう。

    だからあのお家や空間に受け入れられたんだなって。

    麗子さんの新たな試みも楽しみだ。

    いつも本当にありがとう!

    1. reico

      オーマイガー愛するみよちゃん!
      なぜコメントに気づかなかったのか
      通知が来なかったのか
      気づいたのが今朝だったのか

      ううむ…まさに書こうとしていたことへのヒントだ。
      いつもありがとう、すごく大切なことらしいから深掘りするぞー!

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