彼女は聖書の中に於いてたくさんの場面に登場するわけではないのですが
それもまた神さまの計画の一つであると知れば
“おかあさん”についてあなたはもっと深く理解することができるでしょう
マリアは母でした
そして、聖書はその子であるイエズス・キリストと
彼による救いの下準備の物語を含めた書物です
旧約時代神とひとがどのような関係であったか
それがどのように変化し、キリストの来臨を待つことになったのか
新約時代でそれがどのように成就し
ひとがこの世でどのように生きるように招かれているのかが指し示されました
その、神さまの計画の実行のために必要だったのが”母”でした
思い返せばエバについて語られたのはひととしての根幹である女性性についてであり
母としての彼女のそれについては多く語られぬまま
マリアという、完全にひとでありながら神を産み出すという
まさに神の恩寵に与ったひとりの女性の出現まで待たれた、とも読めます
さて、マリアですが
彼女は多くの言葉を語りません
一説によると彼女は物静かな女性であったというより
どこか世間には馴染まない女性でもあったようです
買い物へ出かけることもあまりなく、家の中にあって
夫であるヨセフと、息子イエズスのサポートに徹していました
今で言うところの白痴と呼ばれる、愛らしさを残し続ける特別な恵みに守られていたのかもしれません
しかし、カナの婚礼に於いては重要な役割を担っており
世間的に述べられる知識だとか教養というものが
神の働きをサポートするためには必ずしも必携であるとは言えない、ということを暗に示しているのかもしれません
しかし彼女は決して何もわからないわけではなく
ガブリエルによって神からの啓示を受けたときにも
まだ幼く、多くを知らない少女としてでも
「わたしはおとこのひとを知りませんのに」と
一般常識としての知識は持ち合わせており、かつ
戸惑いを覚える程度には自分なりの価値観というものも確立していたように思います
いざイエズスを産み、育てる中で彼を見失ったときには狼狽し探し回るという
いわゆる”一般的な”母としての心配であるとかそれに起因する対応もしています
それについてイエズスは、息子でありながら厳しい言葉をかけていますが
それは”神”としての立場から彼女へのエールであり
それを受け入れる器を彼女が持っているということを自覚するよう促しています
事実、彼女はひとりの人間として受け取る可能性のあるすべての苦しみを担うものとなることが決まっていましたので
神さまはイエズス(という息子の子育て)を通して彼女という器を作った、とも言えるでしょう
マリアの受けた苦しみは「悲しみの聖母」に表されていますがそれについてはまた時期が来ればお話することになると思います
さてタイトルにした、マリアが持たなかったものについてお話します
それは、「怒り」でした
感情としてそれを持たなかったとまでは誰も言えないでしょうが
彼女が白痴であったということに基けば或いはそれについても
わたし達のような人間よりは遥かに彼女の自我は薄い膜であったであろうと推察することができます
「怒り」(=感情としてのそれではない)
実はこれこそが神さまへの最大の離反であることを理解することがとても大切です
この世の中にはわたし達には到底理解出来ない、したくもないと感じさせるような出来事は数限りなくあります
時にはそのうちの一つを手に取り、激しい怒りを表すひと達もいます
環境問題について過激な抗議行動を起こすひと達もその中に含まれるとわたしは考えています
彼らは非常に傲慢であることを自らが気づくよう招かれています
彼らの論調はこうです
大切な自然を破壊するような行為は許されない。故に神に成り代わってそれを表明する。
ひとは、自然の一部です。そして、それらを自由に使いなさいと神から与えられたのです。
それらから与えられ、恵まれ、守られて繁栄していくように、と手渡されました
しかしひとは弱い。
これについても話をしていかなくてはなりませんが
ひとは自我の欲するままに他者から奪うようになりました
国を滅ぼす暴君のように振る舞う彼らは”正しい”とは言えないのかもしれません。
が、神さまはそれを律することの出来ない方でしょうか
或いは恐れて手を出さずにいるのでしょうか?
神に時間という制限はありません
だからこそ彼らを今はそのままにしているのです
何故なら、彼らをも神は愛しているからです
彼らが自ら気づき、これまでの行いを悔やみ手放すことを神は永遠に待っておられます
そして、彼らにその機会を与えることをこそわたし達に委ねられています
すべてのひとが、その魂の願いである「愛したい」を実現するまで待っているのです
だから、神に成り代わって怒る、などということをする必要は全くなく
それを誰よりも理解していたマリアは怒りを持つことは生涯ありませんでした
わたし達はまず、怒りを手放すよう招かれています
その炎はあなた自身を焼き尽くすからです
愛は炎ではありません。暖かな陽だまりのようなものです
寒い日に思わず皆が集まってしまう、やわらかな日のさす場所に
わたし達もなるようにと神さまが言っています