「reicoちゃんから連絡来た時、”やっと来た…”と思ったよ」と
先日久しぶりに会った大好きなお友だちに言われた。
素晴らしいひとがいるんだよ、と幾度となくわたしに伝えてくれていたけれど
ぜんぜん聞こえていないみたいだったから機が熟すのを待っていたのだ、彼女は言った
わたしの方はと言えば
彼女がそのひとのことをとても大切にしているものなのだな、とは理解していて
だからこそおいそれとはそこに手を出せないと感じていた。
けれどもうどうしようもなくてそれに縋るしかなくておそるおそる連絡した、という次第。
それをそのまま伝えると彼女はいつものように笑いながら「どして?」と聞き返す。
うーん、どうしてなんだろう。
少し掘ってみると、ここもやっぱり”怖い”が潜んでいる感じがした
誰かの大切なものをもし気に入らなかったら
大好きなそのひととの結びつきに何か小さな穴が空いてしまいそうな
それを怖い、と感じているような気がした。
でもそれは裏返してみればわたしがどんなにか彼女を大切に思っているかってことでもあったし
かつ、このやりとりをもって
彼女はやはりそういうのを全く気にしないひとなのだということを改めて知ったような気がした
もともとわたしは自分のお気に入りを誰かが気に入らなくても全く気にしない。
だから彼女に対してもそうだし、逆もまた然りなのだ、ということなのだと理解した
彼女は不思議なひとでわたしとはたぶん根っこは同じなんたけど表現が正反対。
子育てに関しても彼女は不器用なほどに真っ直ぐで、熱くて、あんなことやこんなことに右往左往しているように見えることがあってもブレない軸がある
わたしは常に少し遠くから自分の子育てを見ていて、はぁ、またかよ…と内心うんざりしたりもしつつブレないように見せるテクニックを持っている
彼女は完全に、ひとをサポートするひとらしい。
それで、気づいてしまったことがある。
これまでわたしは誰かに何かを伝える、というよりは
誰かの何かが何なのかを引き出すために働きたいと考えていたけれど
実はそうではなくて、伝えたいものがあるのだ、ということ。
表に立ちたい、そして伝えたい、本当のことを。
それは決して目立ちたいということではなくて
ここに、素晴らしいものがありますよと
誰から見てもわかるように真っ直ぐに背を伸ばして立つ、ということ。
幼いころから無駄に目立つ子で
周囲のことなど気に留めもせず感じるままに生きてきた。
いつか書いたけれど、小学生の頃すごく嫌いな先生がいて
そいつが、手作りの栞をまるで褒章のように
自分の気に入った子に手渡してみんなを手なづけようとしていたのだけれど
どんなに猫なで声でそれを渡そうとわたしをほめそやしても
「いりません」と断っていたのはわたしだけだった、と。
どんな可愛くない小学生やねん、と思いつつも
ああ、わたしらしいなと思った。
そのエピソードを伝えてくれたのがわたしの大切なひと。
見た目もすてきだし心が温かくて仲間想いの素晴らしいひとなのに
彼があんまり自分のことを低く評価するものだから
あなたはとても素晴らしいひとで、尊敬していると伝えると
「そう?でも小さい頃reicoはすごい軽蔑したように”こんなこともわかんないの?ちゃんと勉強しなよ”って言ってたよ」と言われて
穴があれば入りたいような気持ちになった。
でも、でもだけどある意味それって激励でもあるよね、とか言い訳してみる。(笑)
まあとにかく。
他者に何をされても憎むことが出来ないけれど
譲れない何か、をはっきりする面もあり
それはまるでわたしの大好きなジェルソミーナと同じだなと思った。
哀しいくらいに純粋で思い込みが激しいおばかさん。
そして冒頭のお友だちは、ジェルソミーナに石ころの価値を教えたひと。
彼が教えてくれたメロディをジェルソミーナは歌い続け
いつか、石のようだったザンパノの心をとかす。
ただし、それはジェルソミーナが去った後だったんだけどね。
1957年公開、フェデリコ・フェリーニの「道」
いつかまたゆっくり味わいたい珠玉の物語。