わたしは嘘つきだけど
わたしは嘘つきだけど

わたしは嘘つきだけど

嘘を”真実”にする方法を知っています
それはね、ついた嘘を死ぬまでつき通すこと。
そのうち自分もそれを真実だったと思い始めちゃう

結婚する少し前、初めて義母に”遭遇”したのは
旦那さんが幼い頃から行きつけの洋食屋さんでデートしていた時のこと。
あれやこれやと思い出話を懐かしげに語る旦那さんと聞き入るわたしの間に突然
ばさり、と投げ込まれた幾枚かのお札
驚いて見上げた時にはもう、そのひとの影はなくて
何が何やらわからないというわたしに向かって旦那さんが
「あれ、うちのおかんや」と紹介wしてくれた

義母を例えるなら”野良猫のようなひと”で
女手ひとつでやんちゃな息子ふたりを立派に育て上げ
しなやかな美しさを使って誰かに媚びるようなこともなく、凛として独り身を貫いたひと

警戒心はひと一倍で、誰かが伸ばした手がどんなに良い気持ちからであっても
シャー!とひと掻き爪を立てて追い立てる、そんな頑なさも併せ持っていたから
いわゆるクセ強さんで、心許せるのは唯一子ども達だけというひとでもありました

そんな彼女の愛する息子と、縁あって結婚させてもらったのだから
わたしは(おそらくわたしより先に到達する)彼女がその生涯を閉じるまで
彼女を尊敬し、愛してやまないのであるという”嘘”をつき通そうと心を決めました

毎週、子ども達を連れて顔を見せることを希望したときも
毎年子どもの日には電話をしてきて「子ども達の喜ぶものを買ってやりなさい、お金は次に会った時に払うから」と言いつけるのに
一度たりともそれを払ってくれたことがなくても(笑)
わたしは彼女を愛し、彼女の苦悩に寄り添い、毒を吐き出させて浄化し、いつも傍に控え(ているかのように見えるよう振る舞い)ました

彼女のこの世での時間がもう残りわずかであることに最初に気づいたのもわたしでした
本当に、なぜそうなったのかは未だわたしにはわかりませんが
あるとき彼女に会った時それを感じとり、彼女を病院へ連れて行きました

肺を原発とする癌で、そのとき既に”末期”と呼ばれる時間でした
頭蓋骨を支えるべき背骨の第一番目の半分はもう病巣が取って代わっており
僅かでも衝撃が加われば即座に彼女の生命の糸は切れる、という診断でした

入院生活は彼女にとって、決してイージーモードではなかった人生の仕上げに相応しいかのような苦行の日々であったと思います
それまで、貧しくとも自由気ままに、愛する者たちと毎日を過ごした彼女が
見ず知らずの(彼女は認知にも新たな課題を与えられました)ひとに囲まれ
これまでどんな場面もその細腕一本で切り抜け守り続けたという自負さえ軽々しく扱われることを忍耐しました

果たして彼女は最期の時に向かう中でわたしに問いました
「何かわたしに言いたいことは無いのか」
明らかに、間も無くこの世を旅立つひとに向けて手向けられる
“素敵な”言葉など誰が持ち得るでしょう
わたしはこの時、ただ率直に
それが20年前につき通すと決めた”嘘”なのかどうかも判断しないまま彼女に伝えました
「あなたの娘として迎え入れてもらったことを心から感謝している」と。
彼女はそんなわたしに対して
「わたしはあなたを、わたしの母親だと思っている」と
この上なく上等な…過分だとしか言いようのない言葉を残し
ある日ある夜、愛する息子たちふたりだけを傍に従えて天に帰りました

わたしの”嘘”はこのとき結実しました。

彼女に対して常に敬意を現したことも
毎晩数十分おきにかかる電話を取ることに閉口しながら
まるで初めてその話を聞くかのようにふるまったことも
彼女のくだらない自慢話を宝のように丁寧に扱ったことも
ぜんぶ、ぜんぶが嘘に基づく対応でした

でも
こうして彼女のことを思い出すときわたしは
彼女に再び会ってもまた同じ嘘をつくだろうという
もしかしたらそれはいつの間にか本当に
ただ純粋に彼女を愛するということなのかもしれないと
自分のことですら判断出来なくなるような
そんな不思議な空気に包まれてしまうのです

でも、これは天の望みであることも同時にどこかで理解している自分がいます
嘘はつき通せば本当になる
なぜなら自分がそれに騙されてしまうから

さてあなたはどんな嘘をつきますか?
この連休中、それと向き合うのも一興かもしれません

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