かつて、幼かったわたしは
“真実”が何処にあるのかを探しあぐねていました
生来持っていた何かがそれを見つけるようにと突き動かしたのですが
この広い世界の何処にもそんなものは無かったのです
聞き分けの良い子でいても
優等生のふりをしても
ピアノが弾けるようになっても
足が速くてもテストの点数が良くても
それは見つかりません
ならば光を避けて闇に堕ちてみればどうだろうかと
ひとの目を避けるように社会の裏っかわってのを
ちらりと覗き見してみたことがありました
が、やはりそこにもそれはありませんでした。
おかあさんという立場から子ども達を眺めたとき
危なっかしいな、と感じる場面はてんこ盛りです
どんなにおとなしくて聞き分けが良い子であっても
その子を預かるおかあさんにとっては毎分毎秒がハラハラであることでしょう
危ないからやめなさい
もっと平坦な道を選びなさい
回り道など無駄なこと
決められたレールの上は安全だ
子ども達が転ぶのを見ていられなくて
怪我をするんじゃないかと心が痛くて
あれこれと先回りして道をふさぎます
わたし達は、大切なことをするために生まれて来ています
それはひとが一番憧れる”宝物”を探すこと、です
それを愛だと言うひともあり、光と言うひとも
安寧だとか天の国、楽園、たくさんの呼び名を持っていますが
誰もが必死でそれを探しています
自覚があるか無いかにはかかわらず誰もが”必ず”そうです
それを見つけられなければ、課題はいつまでも残るのですから、みな真剣です
厄介なのは、その”探し方”には決まった手順がないことです。にわかには信じられませんが
夜の華として咲く女の子も
何処かの外国の僧院で瞑想する男性も
探しているものは同じなのです
冒険家がいるでしょう
慎重派も
武闘派
理論派
様々な道があります
ひとは全て、それに取り組んでいます
無駄な時間など一秒もありません
ぼんやり空を見つめるだけのあの子も
朝から晩までゲームに興じるあの子もみんな、同じ。
側からそれがどう見えていようと
ひとはいつもそれを求めています
その子から見えるあらゆる場所を探し尽くしてこそ
やっと
その子は静かに自分の内側を辿る旅を始めることが出来るのです
子ども達の行先の道にバリケードを張るのはもうやめませんか
あの道の先にそれがあったのかもしれない
そんな憧れを抱いたまま次の旅に出られる子がいるでしょうか。
もしわたし達が覚悟をして
「よし、行っておいで」と子ども達に声をかけてあげられたとしたら
そのときその瞬間、その子もあなたも変わるのだとお約束します
まずは試してみてもらいたい
切にそう願っています