件の三男と少し話をしていました
子どもを12人、男女6人ずつを預かってみてわかるのは
ひとはそれぞれこの世に出る前に”性質”がある程度決まっている、ということでした
上から3番目から7番目までは年子で5人
うち男の子が4人で、家庭環境は殆ど同じ。
でも、幼い頃に見せていた性格の傾向というのが各々で全く違い、かつ、長じても大して変化しないのです
長男は幼い頃からお年寄りが大好きで
知り合いのお爺ちゃんに連れられてあちこち行きました
「今日はフェリーを見に行ったよ」
「今日は部屋の中でおやつを食べたよ」
お子さんに縁の薄かったご夫婦は長男を、それはそれは可愛がってくれました
その長男は今もOTとして、主にお年寄りのQOL向上のために働いています
三男は、とにかく甘えん坊でした
肌の色が白くてほっぺがほんのり桜色の可愛い男の子
お座りが出来るようになった頃に歩行器を使うと
部屋の掃除をしているわたしの後を泣きながら追いかけてきて、そのうち疲れて寝てしまう
そんな子でした
五男を産んだときはまだ3、4歳で
退院の日に、しばらく預かってもらっていたお家から家に送り届けてもらったとき
先に帰っていたわたしが玄関に迎えに出たのを見つけた途端に
送ってもらった車の後部座席で泣き出してしまいました
それを見た時、もう寂しくさせないからねと次からの出産を自宅にしたくらいでした
そんな三男が今は家から一番遠くにひとりで暮らしていて
不器用な生き方やってんなぁ、というところだったのですが
「ひとを喜ばせるために生きるならその前に自分を喜ばせなさい」
というわたしの言葉がどうしても理解できないようでした
ひとは、自分でない誰かと”愛する”ために生まれます
それはとてもとても難しい。
自分を大切にする、喜ばせる、愛するということがそれとは相容れない、と社会は嘘をつきます
自己犠牲こそが愛である、と。
我欲を抑えることと、犠牲をはらって他者を立てることは違う、と誰が教えたでしょうか。
自己犠牲のその前に、あなたはあなたを世界一重んじなければならず
特に、日本人の精神性は他の国にはない独特なものであるため
カトリックのような一神教を学ぶときは配慮が必要です
過度な自己犠牲が美徳とされかねず、それは実のところ単なる自己顕示のすり替えになってしまいます
ひとを愛するためには愛を知らなければなりません
感情ではないそれをどのようにつかまえるか
三男の大きな課題でもあるようです