「子ども達は缶入りドロップス」
そんな表現が生まれたのは今から10年ほど前
ご縁があって地元新聞紙に掲載して頂いた時
自身の子育てを通して感じたことをそのまま表現しました
子どもの数が増えれば増えるほど混沌は深まります
でも、実は家族のひとりひとりが全て違う人間であるのですから
相手が子どもであれ姉妹であれ従兄弟叔父叔母はとこであれ、どれも同じ。
それどころかひとがふたり以上集まればそこは共同体なのですから
この世に生きる以上わたし達は混沌の中に在り続けることになります
混沌、と聞くとなんだか有象無象が渦巻く無価値なごちゃごちゃ、というニュアンスで受け取られがちですが
ずーっと高い視座から見ればそれは豊かな可能性をたっぷり含んだ滋味溢れる泥のようなものです(泥ってww)
次になにが出てくるかわからない、そんなところが缶入りドロップスのようだな、とわたしは感じたのですが
あながち外れた表現でもなかったと思っています(笑)
わたしはもともとは整っていることが大好きなんです
整理収納アドバイザーの資格()も持っていますが
整理収納アドバイザーというのは、ものを仕舞い込むことではなく
“良く使う”ために収納場所や方法を工夫する、ということに焦点を合わせてアドバイスをします
日頃のルーティンワークを効率化させ、かつ
クライアントさんがまだ気づいていないニーズを掘り起こし
好きなテイストに合うものをいかに美しく見えるよう整えるか、が肝心。
計算し尽くされているからこそ、の美しさだと思っています
そんなことが好きな性格だから
「飴が食べたいな」となっても缶入りドロップスは買いません。
次に何が出てくるかがわからないという”賭け”が嫌いだからです
予測出来ないこと、想定外の結果というものが苦手。
わたしの「飴が食べたいな」をよーく観察すると
“梅味の”や”ラムネ味のしゅわしゅわした”というように
具体的に欲しいものを割としっかりイメージしていることが多いことに気がつきました。
つまりわたしのニーズは、単純に「飴が食べたい」ではなくて
「梅の味のする飴が食べたい」または「ラムネ味のしゅわしゅわした飴が食べたい」というものであり
それをはっきりと自覚していないからこそ「飴が食べたい」という大雑把なオーダーをしてしまい
結果として、差し出されたパイン飴を見て「違う」と拒否してしまうことになりがちなのです
これを極力回避したいから、缶入りドロップスは買わない。
のに。
のに。
選んだのは12人の、個性が大爆発している子ども達のおかあさんになること。
なんとか整えようとしました。
そのために言葉や態度で罰を与えることも沢山ありました
ただの虐待だった、と
自らの子育てを振り返ると恥ずかしさと後悔に苛まされます
でも、子ども達はそれでも元気に育ってくれました
実にそれぞれらしく、自由奔放に。
今日はそう来たか!
え、今度はそっち?
わー、そんなのもあったんだ…
そして、気づいたら出て来たのが冒頭の言葉。
子ども達は缶入りドロップス
次に何が出るかはわからない
期待していたものが出てくることは殆ど無い(笑)
だけど、、どれも美味しい甘い甘いドロップス
ゆるーく子育てに向き合えたら良いんじゃないかな。
それがわたしの提案です