持って生まれた機能を使う、ということ
持って生まれた機能を使う、ということ

持って生まれた機能を使う、ということ

先週末、お友だちのイベントのサポートに参加しました
我が家の子ども達も毎年楽しみにしている
参加ご家族のおちびさん達のベビシ。

我が家も、子ども達が幼い頃からベビシにはお世話になっていたし
周囲に子だくさんの家族が何組かいたので
大きくなった子がチビのお世話をすることは当たり前でしたから
思春期に入った子がこのイベントを楽しみにしているのも当然の流れです

当日、2〜3歳と思しき年子の姉妹がいて
木製のパズルを前に各々楽しげに取り組んでいました
パーツのそれぞれに小さなつまみが付いていて
それを、上手につまんで嵌め込んで行くのですが
見守っていた中3男子が面白いことに気づきました

ふたりとも同じように、パーツを嵌めるべき場所は理解しており
同じように指を使ってつまみを摘み上げられます
ただ、下の子ちゃんは
ざっくりと目当ての場所にパーツを置いたあと
つまみを離して両手でパーツをうんしょ、うんしょと嵌め込むのに対し
上の子ちゃんは、嵌め込む場所と摘んだパーツの角度を
摘んだまま調整して、ピタリと嵌め込んでいる。

たぶん、この子達はおうちでも
おててを使って遊ぶ、ということを繰り返しているのだと思います
だから、一年の積み重ねの経験値の差がちゃんと現れている

同じようなパズルのゲームがあります
スマホやタブレットで手軽に遊べること
ハマるときの効果音もきちんとあって、”リアルに近い”ことから
静かにしておかなければならない場面などで上手に使わせているお母さんを見かけることもあります

でも、それはあくまで”リアルに近い”というだけで
目標物に手を伸ばして摘む、持ち上げる
対象物まで下ろす、落とさないように摘んだまま回す
角度を合わせてはめ、手を離す
この、目や指先、腕の力を使うことは一切なく
日常的にゲームをさせていた場合
カラダを使ってパズルをした子どもとは発達に差が出るはずです
かつ、情緒面に於いても確実に差が出ます

実際にパズルをしたとき
パーツがうまくはまらなかった時
微調整をして、その結果パチリとはまったとき
誰が何をどうフィードバックせずとも
その子はその瞬間、自分の求めていた結果を得たことを知ります
小さな成功体験が発生するわけです

片やゲームでは”効果音”が用意されていますし
大成功!など、視覚にも訴えるようには設計されていますが
現実に、自らが感じとるものとは大きな違いがあります
与えられるのはあくまでフィードバック、相手(機械)からのリアクションだからです

本来喜びは相手がおらずとも覚えることが出来る感情です
(感情のなかでは最も原始的な反応)
このケースで言えば木製パズルのピース
それをつまみ上げる、それだけでも喜びを覚えることができます
もっと小さな子ども達はそれを握ってお口に入れることでその感覚を喜ぶかもしれませんし。
香りが鼻先をくすぐっただけで喜べる子もきっといるでしょう
目が見えずともカタチを知るために触れることも出来ますし
身体が動かないとしても木のぶつかる音を聞き分け
きちんとハマったのかちょっぴりズレたのかを知ることも出来ます

アナログな遊びには、目には見えなくても無限の可能性を呼び起こす力があり
それを繰り返すことでその感覚が深まったり
喜びも少しずつ段階を経て変化して行くことができます

個性がひとの数だけあり、取り組み方も味わい方も、喜びも学びも多様で
それを含む活動こそが多様性の豊かさの体験となります

ゲームが悪いのではなくて(いや、わたしは嫌いだけど)
そこから得られるものの限界を知り
かつ、そこから抜け出せなくなる魔法がかけられていることを知ることが大切です

この世に持って生まれた機能をその子らしく使うこと
その機会を奪わないこと
その必要性を感じた活動となりました
中3男子がそこに居合わせた幸運に感謝しています

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