手入れは不要
手入れは不要

手入れは不要

我が家の庭には紫陽花が4種類植えられています
父と母が植え付けたガクアジサイと、普通の、よくある紫陽花
わたしのカシワバアジサイとアナベル

毎年同じ時期にぐわわ、と刈り込まないと
庭中が彼らに占拠されてしまうのではないかという恐れから(笑)
地面すれすれまで、もはや茎も見えやしないぜ。というところまで大胆(ムチャクチャ)にちょん切っていたのですが…

うむ。
なんや知らんけども…奥の方(父母)のアジサイ
ちっとも花をつけないわね…とは思っていました
とはいえアナベルが旺盛で、毎年淡い翠の小さなお花が白に移ろってステキ…って。

アジサイの”花”に見えているところって、実は花びらじゃないんですってね
ガクが大きく美しく発達したから、花びらに見えているんですって。
虫ちゃん寄っといで、てなことなんでしょうが
ガクを発達させたこのお花は、装飾花と呼ばれていて
おしべもめしべも”持っている”けれど
それらはもうそれら固有の働きはしなくなっていて
タネを生み出すことはしないんですって。
ええ?それなのに虫ちゃん寄って来たってイミ無いのでは…?

なんてね。
自然の中に、意味のないことなんてあるわけないですね。

花房の中央に、ぎゅ、っと集まった真花と呼ばれる部分がちゃあんとあって、その花がタネを作るんですって。
(アジサイの種なんて見たことないけれど)

だって強いものね、この人たち(笑)
たぶんそこらへんにきれいに咲いている子を切って運んできて
よいこらしょと土に挿しておいたって増えそう。

それでなんの話。
ああ、ガクアジサイが咲かないのってお話ね←
あのね!ホントに驚いたんですけど
日本古来からある品種は、去年伸びた茎にお花がつくんですって。
外国由来の品種は、今年伸びた茎につくんだとか。
おおお、そういうことなのね
これを知ったのも、まるきり偶然なのですが
そうだと知って心がふるえました。あゝこんなことにも摂理があるのねって。

大して違わないように似て見えているものも
実は性質がぜんっぜん違っていて
各々を良く観察すれば、それぞれがどう成って行くのかが見えてくるというわけです

子ども達もね、そうなの。
ヒトであり、例えば中学生であり、同じように可能性のカタマリである。
だからわたし達は彼らを注意深く、敬意をもって観察しなくてはなりません

知らない苗木、それも
世界にそれしかないという希少種を手渡されて
いきなり枝をはらう庭師がいるでしょうか
サクラのように繊細かもしれないというのに。
梅のように旺盛で、放置すると実がつかないとしたって
“実を収穫したい”のでなければそのままで良いでしょう

野放図に育つことを恐れるのは理解できます
美しく整った庭園は、たとえその時見えなくてもひとの介在を感じさせ
丁寧に手入れがされていること、つまり大切にされていることが伺えるから幸せなのです
だからそのようでありたい、あるべきだと考えてしまいます
少しでも生えてきた雑草を引っこ抜いて…なんなら生えて来さえしないように細工したり。

けれど、美しさの象徴とも言える日本庭園には丘もあり、小川が流れていたりと
すべて自然へのリスペクトが表現されています
それらは庭師による自然の美しさの解釈であり意訳です
すべてのひとに与えられた大自然という宝を
どれほど愛しているかを伝えたいのかもしれません
でも、それは自然そのものではない。

山々を思い出して下さい。ひとの手が介在しない神秘の山々。
野放図であっても心配はありません
その土地に合う木々や下草、シダ達や苔が
ひとの知恵など遥かに超えた美しい調和で存在しているからです

紫陽花しかない山
そんなものが存在しないことがわたし達にそれを教えてくれます
手入れなど、いらない。
むしろ混沌に見えるものの中のコスモを見つける目を養いなさい、と。

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