はぁー、楽しかった。
どのくらい楽しかったかって?
参加させてもらおう!と決めて申し込みをして
参加OKの返信を頂いたとき
事前に”問い”と”エピソード”を共有せよ、といういきなりのボディーブローをぶちかまされました
やるね!素晴らしいね!!
これまでいくつの講演会、ワークショップ、資格認定講座に参加したことでせうか。
あれやらこれやらそれ、どれもこれもとても素敵でした
一線で活躍し続けていらっしゃる講師の方のお話は素晴らしいし
工夫を凝らしたワークショップは参加者全員の目のキラキラが止まらず
資格認定を受けて、ほれ広げたまへ深めたまへー的なこともあったりしてね
でも、そのうちのどの講座も
参加申し込みに対してドーン!と体重の乗ったパンチをくらわしては来たことがありませんでした
こ、これはもしかすると…もしかするわ…(なにそれ)
高まる期待と、フラットでいたいわたしのせめぎ合いがそこからしばらく続き
前日は興奮し過ぎて2:00まで眠れず、5:00に子ども達の朝ごはんとお弁当の支度を終えた頃にやっと疲労で(笑)ひと眠りすることが出来ました
遠足の前の晩眠れなくなるタイプ、the小心者です。
(初めての納車の日は体温調整も出来なくなりました(爆)
やっと昼前になってのそのそと起き出し
PCを開いてあれこれと作業を始めたものの
シューチューリョクというものがすっかりそこに紐づいてしまっており
数時間の激闘の末、全ての変更箇所を元に戻さざるを得ない状況に陥るという
パチンコを嗜まれる方々ならばおそらく共感して下さるのではないかという
えも言われぬ高揚感と失速感、そして
挫折の香りがそこはかとなく漂いつつも心地良いような疲労感という
感情のジェットコースターやぁー(彦摩呂風味)を味わいました
豊かだわ…ふぅ。
それでなんの話
ああ、そう。つまり、初めての体験だったなと思ったんです
実は20余年にわたり、わたしは「分かち合い」という活動には慣れ親しんで来ました
互いの持ち物(目には見えないものです)を出し合い、共有するということは
哲学カフェのルールにとても近いルールを持っていました
他者の話は最後まで聞くこと
アドバイスや批判は不要であること
各々は”自らの”体験に基づく気づきをシェアすること
(名言の引用などは不要)
何某かの合意や一致を目指す必要はないこと
内容を外部にもらさないこと
それはディベートでもディスカッションでもなく
ただひたすらに参加者の思い、考え、ひらめきが交叉する場所であり
各々違うものを提示され、また、することによって得た”気づき”を
次なる日々への課題、もしくは考察し続けるための火種として持ち帰るという活動のはずでした
でもね、月単位でシャフルするとは言え限られたメンバーで10年以上も同じことをしていると
そうとは気づかないフリをしていても
いつの間にか場の空気というものが形成され、かつ
その中で発言者の立ち位置めいたものまでもが立ち昇って来るものなのです
ひとは明確に”それを避ける”ことを意図しない限り
どんなに小さなコミュニティでも、ヒエラルキーを形成し始めてしまう傾向があり
テーマに沿って考えを共有する、という場を設ける場合には
それを常に自覚しながら場を回すひとの存在が不可欠となります
参加者が各々自由に発言する中で
テーマから逸れつつある、と読みきり
それとは気づかれないうちに渦を撹拌する
ファシリテートする、とはそのような技量を持つひとにこそ可能なのではないかと思っています
静けさと鋭さ、柔和と聡明さを同時にフル活用すること
もしかしたらそれは持って生まれたものなのかもしれません
昨日参加させてもらった哲学カフェでは
ファシリテーターとは何ぞや、を間近に拝見した気がして心が踊りました
おかあさん本舗での「対話」は他者との共有ではなく
自分の中に既にあるものを探し出すための対話ですが
ファシリテーターとしての学びが深まるような素晴らしい時間でした
また機会があれば参加させていただこうと思っています