突発的に誰かを「嫌い!」と感じることは誰にでもあって
そんなケつまらんことにいちいち目くじら立ててたらなんの話も出来ません
何某かの出来事に対して感情が反応するのは、ひとである以上誰にでもあって当然のことです
そんなことは無いわ、そういう次元からはもう卒業したのなどと宣う方がお近くにいらしたら
あらそうですか、と華麗にスルーなさいませ
昨日、とあるご相談がありました
どうしても受け入れ難いひとがいるのだけれどどうすれば良い?
どうもこうも…あなたはどうしたいの??
基本的に、ひとはしたいようにすれば良いんじゃないかと思うんです
その方には迷いがあって
誰かを許せないということは”良くないことなのではないか”と考えているようで
その、”良くないことをしている自分”は良くない者なのではないだろうか?という問いと
いや、でもしかし。許せないものは許せない。何故ならその人は傍若無人に振る舞うからだ…
という気持ちとの間で揺れているような感じ。
ふむふむ。現段階でやれることはふたつありますね
許したいと願うか、許せないことを受け入れるか。
許したいと願うけれど許せないのだ、とそのひとは言いますがそれはストレートに言えば”許したくない”ということ。
許せないという事実に対して”許したいけれどさ”という飾りをつけることで許せない(許したくない)から目を逸らさせようとしています
誰の目を?…自分自身の目を。
ぶっちゃけたことを言えば
そのひと以外、その問題なんてドーデモヨーなことなんです
誰が誰を許そうが許すまいがどうでも良いカンケーネーってなところです
でもね、相談して下さったんですもの。
だからもう一度聞きます。「あなたはどうしたいのですか?」
水を向けてもなかなかそういうひとは真実を語りません
自分の目をごまかし続けて来たから本当に見えなくなってしまっています
だから、問いを変える必要がある
結果としてはまあ、思うところを相手に伝えることにする、と。
その時は臆することもないけれど感情を乗っける必要もないのでシンプルに
ストレートに事実だけを伝えよう、ということになりました
相談事には一律同じ答えというものはありません
同じひとからの同じ内容の相談であったって
相談者のこころの状態で対応が変わります
相対するひとに覚える怒りの根は自分の中にある痛みに繋がっています
ほじくり返すのは辛い作業です
自分がいついかなる時も揺るがぬ愛で包まれているという確信が持てないから怖いのです
こんなドロドロが露呈したら誰からも嫌われるのではないか、って。
だからわたしのセッションではよほどのことが無い限り
相談の具体的な内容には触れません
クローズされた安心できる環境でこそ、ひとは自分の醜い(と思い込んでいる)部分を覗くことが出来るからです
でもね本当はあなたはそんなに汚れているわけでもないし
まして悪い者ではないんです
それを認めるまでが一番時間がかかるけれど
受け入れられれば全ての問題が魔法のように消えます
今回はまだその魔法にかかる気はないようでしたが
それもまた誰にとってもドーデモヨーなこと。
あなたは本当に自由です
※この事例にはフェイクが含まれています