学校に行けない子
学校に行けない子

学校に行けない子

夏休み明けからぱったりと学校に姿を見せなくなる子どもがいるそうです

子ども達それぞれがどんな顔をしているのか
注意深く観察することが必要になりますが、ここで言う”注意深く”とは
いかにも重大なことを観察しています、という体裁をとらないこと。を意味します

どうしたの?なぜ行かないの?
お友達と何かあったの?先生に叱られた?お勉強がきついの?
矢継ぎ早に質問攻めにするなんてことが努努起きませんように。

子どもが「今日、お休みしても良い?」と聞いてくるなら
「うん、良いよ。どうかしたの?」
先ずは休んでも良いのよ、を大前提として話を進めてみてください
その時、どんな顔を見せたか覚えていて下さいね。

学校って、お休みしたって良いんです。無理をしてまで行く”必要”はない。
でもさ、楽しいことあるんじゃない?
外遊びも、美味しい給食もある。それでもお休みする??

うーん、と迷っている様子が見える時
我が家ではこんな提案をしています
「お家にいる間、留守にしているママのお仕事を代わりにやってくれない?」
お掃除や、洗濯物の出し入れ、猫のお世話、食器の片付けやなんか。
げ。そんなのするくらいなら学校行くわ
ってんなら送り出しても良いかもしれません

子ども達の表情をしっかりと観察して下さい
体調が思わしくないのか、精神的なものなのか
向き合いたくない何かがあるのか、気まぐれかただ休みたいのか。
判断するための揺るがない大前提として「お休みしても良いよ」があるのだと
わたし自身が腑に落としているかがとても重要になります

子育てをするとき、ある程度社会的に認められたレールに乗っけておけばママは安心することが多いのだろうと感じています
何故かというと、そのレールに乗せたことによって起きる問題は
おそらく同時に多くのひとにも起きるだろう、ということから
個別に責任を感じる重みが軽くなるからなのだと思っています
就職難にぶち当たったところで
まーねー、そんな時代だったもんねー、で流せるような気がするでしょう

学校を休んでも良いんだよ、ということを認めるのは
このレールからは外れてしまう可能性が高く、ママはそれをとても怖がります

もちろん、わざわざレールから引き摺り下ろす”必要”はありません
ただ単純にシンプルに
この子は何がしたいのかしら、を感じ取り
それを表現するためには枷などないのよと伝えてあげられたら素敵だろうなと思うんです

責任なんかとる”必要”はなくて、身構えなくても大丈夫
子ども達はそれぞれの人生の主人公として大いに傷つき、倒れたらまた立ち上がり
時には倒れ込んだまま空を見上げたり、涙したり
好きなようにさせておけば良いんです

今生、ゴールまで辿り着かなくたって良いでしょ
To be continued、素敵な言葉ですね

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