余韻〜哲学的対話こぼれ話〜
余韻〜哲学的対話こぼれ話〜

余韻〜哲学的対話こぼれ話〜

10月19日の哲学対話後のクールダウン中に共有された
とある”本”にまつわるこぼれ話が
ふつふつとわたしの中で新しい何かを生み出し続けている。
看過出来ない、と表現するほどの硬さはないのかな?と思いつつも
華麗にスルー、は到底ムリ。というくらいの感じ
つまりこれは深掘りしたくなるやつ。

(わたしの中での)テーマは「言葉」
投げ入れられた石としての問いは
「言葉はデジタルである∴他者には通じていないのではないか?」
という、その”本”から投げかけられたらしいひとつの可能性。

感情レベルでは、この乱暴さは好みではないと前提する(自分に許可する)

通じていないのではないか?という
コミュニケーションを計る”道具”としての”言葉”に対してこれ以上はない、というほど絶望的な”仮定”は
それほどでもなかった、という結びへの”過程”であって欲しいし、おそらくそうであろう。

言葉はデジタルである。
まあ、そんくらいは許そう。だって符号だもん、そもそも。
というかもっとそもそも、”通じる”とはなにか?
数学的に”符号する”ということ???

んなわけないよね。大前提として
この世界に、ひとりとて”わたし”が”わたし”以外には存在しないのだから
(いや、ややこしくなりすぎるからそうだ、とするってことに過ぎないのだけれども。)

「赤」という”言葉”が何であるか。
紅色の鮭色だの思色だの赤丹だの…そういうことではなくて
もっとざっくりはしていて良いとする。

わたしが見ている「赤」が
あなたの見ている「赤」と全く符号する、と
誰かが爪の先ほどの疑いもなく…
いや、或いは、疑うということを自認することすらなく
だからこそ信じる信じないでもなく…
(あーめんどくさい。)
と、に、か、く、さ。

それらが寸分違わず一致しているだろうなんて
だれが思うってんだこんにゃろ!

言葉はデジタルだから
“本当のところ”は誰にも通じないんだよねーwww
なんてことがもし。万一。仮にも定義しようなんてヤツが出てきたら。

馬乗りになって往復びんたしてやる
…のも面倒くさいからこうしよう。

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しかし、わたしは言っておく。
悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、
左の頬をも向けなさい。

‭‭マタイによる福音書‬ ‭5‬章39節 新共同訳‬

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右の頬を打たれる、ってのは侮蔑。

(右利きの)ご婦人が、手にしたグローブでピン、と
対面した誰かの右の頬を打つイメージなのよ。
決してフルボッコの右ストレートではないの。
右ストレートなら(いや、フックであっても)
打たれるのは左の頬なんだもの。

ね?聖書もそんなふうに読むと面白いでしょう?
だからもっと知りましょうね、互いのことを。
こ、と、ば、を使ってさ!!

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