問題行動を起こす子どもの原動力ってやつがそれである、と言われたら「はいそうですね」と答えれば良いと思っています
それは単なる事実であって
求められる量の愛情を注がなかった誰かを責めるものではありません
この世に生まれて来る子ども達すべては、全く違うニンゲンです
我が家の子ども達、たった12人のサンプルだけで何を言うかとおっしゃいますな
全ての出来事はフラクタクルなのだから。
さて、本題に戻りましょう
わたし達は少なくともわたし達なりに、誰かと愛したいと望んでいます
愛とは何か?という問いがありつつもそれはまたいつか、ね。
おかあさんからの相談の中でとても大きな比重を持つもののひとつに
子どもを充分に愛せていないのではないか?という痛みがあり
深掘りして行くとその殆どに”子どもの求めるように”が潜んでいます
誤解を恐れずに言えば、その要求には応える必要はありません
というか、相手の求めるものを与えることは誰にでも決して出来ません
だってあなたは彼らではないのですから。
この、至極当たり前の考え方を提示すると、多くのおかあさんは胸をなでおろします
でも直ぐにまた「でも…」と表情が曇る。
それほどまでにおかあさんは子どもを大切に思っています
子ども達がおかあさんの愛情を欲し、かつ痛むのは
その子が今生をかけて愛を知るというテーマへのトリガーです
“足りない”ものを満たせるのが誰であるのかを
子ども達は自由に寄り道まわり道を経て探し続けます
それに寄り添い続ける必要はありません
多くは思うようにならないことばかりです
そんな時、彼らはわたし達に
「欲しいものを与えなかった」と告げることもあるでしょう
あげたかったけれど、出来なかった。
そして、それに添えるならば「ごめんね」よりも「頑張ってね」のエールを!