それは何なのか。
食べて、寝て、また起きて。
何かを感じたり、そうでもなかったり
考えたり揺蕩ったり微睡んだり怒ったり、時には涙したりとか。
そういう、なにか大きな流れに乗るというようなこと”以外の”
確かにあろう、けれど意図すれば容易く忘去されてしまうかのような…
でもそのくせ決して消すことの叶わない深い深い痕跡。
そ
れ
は
何
な
の
か
理解したつもりでいたそれ、
…いや、確かにそう。
自らの理(ことわり)としてアタマでは解してはいて
でも怖いから、と。
だから見ようともせず、ごくん!と、ただ嚥下して
カタマリを受容れた余韻としての
胸のつかえだとか仄かな痛みだとかを憶えたからと
あゝわたしは果敢にもそれを受け入れようとはしたのだ、と思い込むことで
「違うの、そうじゃないのよ」という
別の視座から発せられる自らの声に耳を塞いでいた
けれどそれがもし
全き”安全な”フィールドに在る(または、在るのだと”信じ切る”ことを許可することさえ出来るのならば)
人生の、既に通過したひとつの”点”から思い起こされる辛く痛かったそこに振り返り
自らが全力で否定し続けるそれ、つまり
「わたしが今ここに生きる、とは?」という
とてつもなくミクロで、同時にマクロな
“ひと”が”そのひと”として持つ
極めて根幹…ともすれば根源的な問いに対する答えを紐解くトリガーになるのだ、と
そういう体験をしてきたのだ!!!ドヤ!(長い)
認めたつもりでいたけれど認めてはいけないのだと思っていたこと
わたしの中(つまり世界中の誰かの中)に既にあるそれを語る時に他者は全く関係がないのだ
という事実。
他者の中の鈴をどう鳴らすのか?
そんなことばかり考えていたけれど
本当に、それって大きなお世話なわけで…
わたしは、ただわたしの中の鈴の音を鳴らして
心地よさに身を委ねれば良い
ただそれだけなんだよね
自由なのだ、と改めて認識し直すための素晴らしいワークでした
風のようでありたい
そんな魂の願いを叶い続けさせてあげよう、わたしに。